さうしてそのとき私が一つの試煉でもあるかのやうに自分をその前に立ち續けさせてゐたのは、その何處までも詮め切れずにゐるやうな、一番かはいさうな女であつたのだ。
「かげろふの日記」を書き、さらにその女のやや心の落着いた晩年の一插話を描いた「ほととぎす」を書いた後、私もまた孤獨の境涯を去り、ひとりで信濃の山中に何かを思ひつめたやうにして暮らすやうなこともなくなつてしまつてゐたが、去年の夏にならうとする頃、或雜誌に依頼された短篇小説を書くために本當にしばらくぶりに一人きりでぶらつと信濃に出かけて往つた。
そのときその山麓の古びた村と「更級日記」と――私が少年の日から別々にそれを懷しんできた二つのものが、不意にその折の私の餘裕のある心の裡で結び合はさり、私は再び王朝の日記から取材して小さな短篇を書いて見る氣になつた。