そのときその山麓の古びた村と「更級日記」と――私が少年の日から別々にそれを懷しんできた二つのものが、不意にその折の私の餘裕のある心の裡で結び合はさり、私は再び王朝の日記から取材して小さな短篇を書いて見る氣になつた。
なぜこの日記が信濃に因んで「更級日記」と題せられるやうになつたか、それまでそんな事には殆ど意を介しもしなかつたのに、そのとき突然私にそれがはつきりと分かつた。
月の凄いほどいい、荒涼とした古い信濃の里が、當時の京の女たちには彼女たちの花やかに見えるその日暮らしのすぐ裏側にある生の眞相の象徴として考へられてゐたに違ひなく、そしてさういふ女たちの一人がその心慰まぬ晩年に筆をとつた一生の囘想録はまさにそれに因んだ表題こそふさはしいのだ。