モオリアックを譯して「作品」に載せるとき、何がいいだらうと僕も相談を受けましたが、僕はあいにく「テレエズ・デケエルウ」と「癩者への接吻」しか讀んでゐなかつたけれど、どちらにもひどく感心してゐたので、躊躇なくその二つのうちならどつちでもいいだらうと答へましたが、まあ「テレエズ・デケエルウ」の方がいいかなと思つてゐたところ、辻野君は「癩者への接吻」の方を撰びました。
勿論その方が短くて雜誌に載せるのに都合よかつたせゐもあつたのだらうけれど、それをしばらく問はないとすれば、その二つのうちの撰擇にも辻野君の一面がよく出てゐるやうな氣がする。
さういふモオリアックの初期のものなどから、最近はもつと本格的なカトリック文學にずんずん惹きつけられてゐたやうですが、(さういふカトリック的要素は二つのうちでは「癩者への接吻」の方にずつと多かつたのぢやないかしら、)しまひにはとうとうモオリアックの近作「イエス傳」をすこし我武者羅な位に素早く(それで身體までこはしたやうだが)譯してしまつた。