今、表紙の汚れた「青猫」を書架からとり出して見ると、この本のなかからさういふ少年の自分の姿が詩といつしよになつて蘇つてくるのを覺える。
その頃の私は一番何になりたがつてゐたかといふと、さういふ萩原朔太郎の詩のもつてゐるものを散文の領域に發展させた、哲學的な内容といふよりもむしろそのやうな情緒をたぶんに持つたエッセイの書ける、いままで日本には一人もゐなかつたやうな poet-philosopher になることだつた。
(後年、萩原さん自身がさうなられた……)
今、表紙の汚れた「青猫」を書架からとり出して見ると、この本のなかからさういふ少年の自分の姿が詩といつしよになつて蘇つてくるのを覺える。
その頃の私は一番何になりたがつてゐたかといふと、さういふ萩原朔太郎の詩のもつてゐるものを散文の領域に發展させた、哲學的な内容といふよりもむしろそのやうな情緒をたぶんに持つたエッセイの書ける、いままで日本には一人もゐなかつたやうな poet-philosopher になることだつた。
(後年、萩原さん自身がさうなられた……)