私は芥川さんの「玄鶴山房」の細部にセザンヌの繪を認めたと同じ程度に、あなたの小説の全體のテンポ、一場面から他の場面への轉囘の仕方、俳優の顏を大寫しにするやうなところどころの心理描寫、等の中に映畫的なよさを認めました。
しかしカメラは、いかに努力しても、現實の陰影をしか捕へることが出來ないものです。
それがどんなによい映畫であつても、全體としてはすぐ忘れられて、そして我々の記憶にはその細部だけしか殘らないといふ事實が、それを證明します。
私は芥川さんの「玄鶴山房」の細部にセザンヌの繪を認めたと同じ程度に、あなたの小説の全體のテンポ、一場面から他の場面への轉囘の仕方、俳優の顏を大寫しにするやうなところどころの心理描寫、等の中に映畫的なよさを認めました。
しかしカメラは、いかに努力しても、現實の陰影をしか捕へることが出來ないものです。
それがどんなによい映畫であつても、全體としてはすぐ忘れられて、そして我々の記憶にはその細部だけしか殘らないといふ事實が、それを證明します。