……さういふ王朝文學獨得の花やかで寂しい情趣をいま假りに措いて、さういふ物語の奧に潛んでゐる何か不氣味な感じのするものを取り出して見てみますと、これまでのやうに佛教的な因果などで説くだけではいかにも僕らには物足りなく、やはり僕らはそれをすぐれた長篇小説の一つの特性から來る――たとへば近代のプルウストやトオマス・マンの長篇小説の持つてゐるのと同樣な――何か本質的なもののやうに考へても見たいと思ひます。
私はそんな事を考へる一方、それらのプルウストやマンの取り扱つたどちらかといふと頽廢的な近代人とは對蹠的に、光源氏といふものを、或意味で日本古代の最後のトラヂックな人物のやうに考へなければいけないのではないかと考へるのです。
トラヂディといふ語を悲劇と譯したのではこの場合どうもまづい、鴎外流に悲壯劇とでも譯したらまあ感じが出ませうが、――本來のトラヂディといふものは、本當に崇高な人物が、運命の抵抗に遭つて、さまざまな苦しみをしつつ、その生涯の何處かに人知れぬ涙の痕をにじませながらも、しかもその生得の崇高さを少しも失はずに、最後まで生き拔く、――さういつたものなのではないでせうか。