私はそんな事を考へる一方、それらのプルウストやマンの取り扱つたどちらかといふと頽廢的な近代人とは對蹠的に、光源氏といふものを、或意味で日本古代の最後のトラヂックな人物のやうに考へなければいけないのではないかと考へるのです。
トラヂディといふ語を悲劇と譯したのではこの場合どうもまづい、鴎外流に悲壯劇とでも譯したらまあ感じが出ませうが、――本來のトラヂディといふものは、本當に崇高な人物が、運命の抵抗に遭つて、さまざまな苦しみをしつつ、その生涯の何處かに人知れぬ涙の痕をにじませながらも、しかもその生得の崇高さを少しも失はずに、最後まで生き拔く、――さういつたものなのではないでせうか。
もう一度讀みかへさないでこんな事を言ふのは少し不安でもありますが、「若菜」に於ける光源氏の苦惱はさういふ悲壯なる人物の最も苦しい晩年を描いたものとして立派なものだつたのではないでせうか。