彼が山の療養所を訪れてから、一月の余になって、社の用事などでいろいろと忙しい思いをし、それから何もかも忘れ去るような秋らしい気持ちのいい日が続き出してからも、まるで菜穂子を見舞ったのは、つい此の間の事のように、何もかもが記憶にはっきりとしていた。
社での一日の仕事が終り、夕方の混雑の中を疲れ切っておもわず帰宅を急いでいる時など、ふと其処には妻がいない事を考えると、忽ちあの雨にとざされた山の療養所であった事から、帰りの汽車の中で襲われた嵐の事から、何から何までが残らず記憶によみ返って来るのだった。
菜穂子はいつも、何処かから彼をじっと見守っていた。