あのいかにも古拙なガンダラの樹下思惟像――仏伝のなかの、太子が樹下で思惟三昧の境にはいられると、その樹がおのずから枝を曲げて、その太子のうえに蔭をつくったという奇蹟を示す像――そういう異様に葉の大きな一本の樹を装飾的にあしらった、浅浮彫りの、数箇の太子思惟像の写真などをこの頃手にとって眺めたりしているときなど、私はまた心の一隅であの信濃の山ちかい村の寺の小さな石仏をおもい浮かべがちだった。
一つの思惟像として、瞑想の頬杖をしている手つきが、いかにも無様なので、村人たちには怪しい迷信をさえ生じさせていたが、――そのうえ、鼻は欠け落ち、それに胸のあたりまで一めんに苔が生えていて、……そういえば、そんなにそれが苔づくほど、その石仏のあるあたりは、どんな夏の日ざかりにもいつも何かひえびえとしていて、そこいらまで来ると、ふいと好い気もちになってひとりでに足も止まり、ついそのままそこの笹むらのなかの石仏の上へしばらく目を憩わせる。
と、苔の肌はしっとりとしている。