まだ自分でもしようがないとおもうのは、大和の村々を歩いていると、なんだかこう、いつもお復習をさせられているような気もちが抜けないことだ。
もうすこし何処にいるのだかも忘れたようになって、あるときは初夏の風にふかれながら、あるときは秋の雲をみあげながら、ぼんやりと歩けるようになりたい。
――心におそろしげに描いてきた神々のいられた森が何かつまらない小山に見えるきりだったり、なにげなく見やっていた或る森のうえの塔に急に心をひかれ出して暑い田圃のなかを過ぎっていったり、或る大寺の希臘風なエンタシスのある丹のはげた円柱を手で撫でながら、目のあたりに見る何か大いなるものの衰えに胸を圧しつぶされたり、そうかとおもうと、見すてられたような廃寺の庭の夏草の茂みのなかから拾い上げた瓦がよく見ると明治のやつだったりして、すっかりへとへとになって、日ぐれ頃、朝からみると自分の仕事からかえって遠のいた気もちになって帰ってくることが多いのだ。