――だが、まだなかなか信濃の高原などを歩いていて、道ばたに倒れかかっている首のもぎとれた馬頭観音などをさりげなく見やって、心にもとめずに過ぎてゆく、といったような気軽さにはいかない。
それでいて、そのふと見過ごしてきた首のない馬頭観音の像が、何かのはずみで、ふいと、そのときの自分の旅すがたや、そのまわりの花薄や、その像のうえに青空を低くさらさらと流れていた秋の雲などと一しょになって、思いがけずはっきりと蘇ってくるようなことがあったりする工合が、信濃路ではたいへん好かった。
なんだか、そういったうつけたような気分で、いつの日か、大和路を歩けるようになりたいものだ。