去年の五月頃、私はモオリアックといふ佛蘭西の作家のものを二三篇讀み、それから小説論のやうなものを少し讀んで、私のこれまでの「小説」といふものに對する考へが非常に變つて來かかつた矢先、――ふとしたことから、獨逸の詩人リルケを讀み出し、再び詩といふものに強く引かれて行き、さういふ状態がずつと今日まで續いて居りますが、今度、「神々のへど」などをゆつくり再讀してゐるうち、それらの諸作が何處かモオリアックのものと似てゐるせゐか、また、この頃、モオリアックのものを讀んで見たいやうな氣がしかかつてゐます。
何處が似てゐるかといふと、モオリアックの事をすこし詳しく書かなければならなくなりますが、まあ、一口に言へば、モオリアックといふ作家は、「とぐろを卷いてゐる蝮の群のやうな」神を見失つた人間どもの悲慘を描いて、逆説的に神のない世界の暗さを示さうとする(モオリアックはカトリックであります)作家であります。
さういふモオリアックは、それ等の悲慘な作中人物どもの上に何處からともなく徐々に一條の神々しい、「冬の光線」に似た痛々しい光線を浴びせかけて行くのでありますが、その作品からカトリック的な要素を一切除いてしまつたら、そこには室生さんと大へん似通つてゐる一人の西洋の作家がゐるやうな氣がするのです。