それから、その夏(去年)軽井沢へ往ったときは漸く宿望の蓄音機をもっていけたので、私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては、とうとうこれがあいつの形見になってしまったのかと思うようになった。
私はその二つの曲の中では、ドビュッシイの近代的な歌よりも、寧ろイタリアの古拙な聖歌の方を好んだ。
それらのゴブラン織のような合唱の中を、風のように去来する可憐なボオイ・ソプラノはなんとも云えず美しいものだった。
それから、その夏(去年)軽井沢へ往ったときは漸く宿望の蓄音機をもっていけたので、私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては、とうとうこれがあいつの形見になってしまったのかと思うようになった。
私はその二つの曲の中では、ドビュッシイの近代的な歌よりも、寧ろイタリアの古拙な聖歌の方を好んだ。
それらのゴブラン織のような合唱の中を、風のように去来する可憐なボオイ・ソプラノはなんとも云えず美しいものだった。