人殺しが商売だったという満洲浪人(この妹は仕立屋の弟子)の隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋銀次の流れをくむその道の達人だということであり、その裏に海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食い珈琲をのみ缶詰をあけ酒を飲み、このあたりは一尺掘ると水がでるので、防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを用いて自宅よりも立派な防空壕をもっていた。
又、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共を睨みつけて連日泥酔していた。
伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった男で、二十七の年齢にくらべれば裏側の人生にいくらか知識はある筈で、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。