又、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共を睨みつけて連日泥酔していた。
伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった男で、二十七の年齢にくらべれば裏側の人生にいくらか知識はある筈で、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。
戦争以来人心が荒んだせいだろうと訊いてみると、いえ、なんですよ、このへんじゃ、先からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のような面持で静かに答えるのであった。