又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。
当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒達はみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者達というものは、恰も刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。
無数の彼等の流血は凄惨眼を掩わしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。