それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じてゐるから。
芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だといふ、これは鉄則ではないか。
彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスを自らの作品に於て自ら作つた大阪弁に於て主張せず、実在する大阪弁に見出し主張してゐるのは矛盾である。
それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じてゐるから。
芸術は現実の複写ではない、作るべきもの、紙上の幻影(実在)だといふ、これは鉄則ではないか。
彼が、人々の作品の大阪弁を否定するのはよろしいが、そのオルソドックスを自らの作品に於て自ら作つた大阪弁に於て主張せず、実在する大阪弁に見出し主張してゐるのは矛盾である。