近くはレエモン・ラディゲがさうであり、人は彼が時間的に近代の人であるため、彼に時間的な近代を認めがちだが、単に昔ながらの文学の宿命的な近代、つまり人間を眼によつて描いてゐるにすぎないのである。
そしてラディゲが、同じ一つの眼によるに拘らず、少年の作品であるとすれば、ラクロはより成熟した作品で、その意味に於ては、「ドルジェル伯の舞踏会」を昔に、「危険な関係」をより近代の作品に見たてても差支へがない程である。
つまりラディゲの窓からは、まだ肉体の人間関係が閉ざされてをり、彼のエスプリ、彼の眼は、ただ思慕や姦淫の念とその裏側のカラクリをめぐる人間戯楽の図絵を突きとめ得たにすぎない。