それで岩波も葛巻の申出を拒絶することができなかつたのであるが、この良心的な然し尊大な出版屋を屈服させた葛巻の我儘は私を驚愕せしめたものである。
葛巻は私を誘ひ(二人が編輯に当つてゐたから)岩波書店の出版部長をよびだし、神田一円の表通り裏通りを当もなくグル/\と歩き廻りながら、岩波が言を左右にして申出をはぐらかす曖昧な態度を難詰し、芥川全集の出版は中止にします、と叫んだが、彼の全身は怒りのためにふるへてゐた。
葛巻は良家の躾よく育てられた礼儀正しい少年で、自分の意志を率直な言葉で表現することのできない弱気な貴公子といふ風で、私は彼の怒つたのを見たことすらこのとき一度あるのみ、ふだんはウンザリするほど煮えきらない人だ。