それから以後は、この平凡極まる東京のどこにでもごろごろして、最も平凡を極めている辻待の人力車を見るたんびに、この車だって昨夕人殺しをするための客を出刃ぐるみ乗せていっさんに馳けたのかも知れないと考えたり、または追手の思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女を幌の中に隠して、どこかの停車場へ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人で怖がるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会って然るべきはずだという考えが自然と起ってきた。
ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。