当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。
従而このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。
元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。