私流の解釈によれば、人間は算数的に割りだせる利益或ひは価値に対してひとつの確信をもつて判断を行ふことができるが、ひとたび算数の手掛りを失ふや否や常に不満不安の裏打ちなしに何事もなし得ないものなのだ。
私はそれを次のやうに解釈する。
即ち我々の「生」そのことが非算数的な、かつ一にして全なる価値であつて、非算数的な値打に対する打算への絶えざる不安不満は、つまり「生」そのことの打算に対する不安不満の影だつたのだ。
私流の解釈によれば、人間は算数的に割りだせる利益或ひは価値に対してひとつの確信をもつて判断を行ふことができるが、ひとたび算数の手掛りを失ふや否や常に不満不安の裏打ちなしに何事もなし得ないものなのだ。
私はそれを次のやうに解釈する。
即ち我々の「生」そのことが非算数的な、かつ一にして全なる価値であつて、非算数的な値打に対する打算への絶えざる不安不満は、つまり「生」そのことの打算に対する不安不満の影だつたのだ。