大河津分水工事や港内の浚渫・護岸・突堤等の諸工事がまだ行はれない明治初年の新潟港は、時節によつては深さわづかに二三尺の惨めさで、吃水四五尺の船が港外一里の沖に船繋をする状態だつた。
おまけに屈託のない信濃川は土砂を運ぶ一方で、港内は浅瀬のひろがるばかりであるし、火輪船の船体は日増しにふとる一方である。
貿易港は空名で、明治十一年が訪れた時には、一番諦らめの悪い領事さへもはやこの土地を引上げてゐた。
大河津分水工事や港内の浚渫・護岸・突堤等の諸工事がまだ行はれない明治初年の新潟港は、時節によつては深さわづかに二三尺の惨めさで、吃水四五尺の船が港外一里の沖に船繋をする状態だつた。
おまけに屈託のない信濃川は土砂を運ぶ一方で、港内は浅瀬のひろがるばかりであるし、火輪船の船体は日増しにふとる一方である。
貿易港は空名で、明治十一年が訪れた時には、一番諦らめの悪い領事さへもはやこの土地を引上げてゐた。