気分がいくらか晴れるにしても眼をとぢれば元の木阿弥である。
結局立ち上つて歩くだけの足損だと観念の臍をかためてゐるうえでの凝念自若たる木像であらうと思ふ。
別段になんらの知的探究も賭けないところの斯かる民族的なそしてまた本能的なニヒリズムは聊かならず外国人に理解のできぬところであらう。
気分がいくらか晴れるにしても眼をとぢれば元の木阿弥である。
結局立ち上つて歩くだけの足損だと観念の臍をかためてゐるうえでの凝念自若たる木像であらうと思ふ。
別段になんらの知的探究も賭けないところの斯かる民族的なそしてまた本能的なニヒリズムは聊かならず外国人に理解のできぬところであらう。