然し、こうして明滅する妄想と闘いつゝ辞書をひいても、凡そ平時の十分の一と能率はあがらぬものだが、ともかく、この方法によって、妄想をくいとめ、一年半ほどの後には、以前の自分に戻ることができた。
そのころ、つまり、どうやら妄想を抑えつけることに成功して、もとの自分に戻ったころだが、私は、はじめて、小説を書いた。
それは、まだ小説家になろうなどゝいう考えではなく、チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって、一夜のうちに書いたものだが、今、記憶しているのは、老人が主人公であったこと、出来栄えはとにかく、スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられたという快感だけである。