そのころ、つまり、どうやら妄想を抑えつけることに成功して、もとの自分に戻ったころだが、私は、はじめて、小説を書いた。
それは、まだ小説家になろうなどゝいう考えではなく、チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって、一夜のうちに書いたものだが、今、記憶しているのは、老人が主人公であったこと、出来栄えはとにかく、スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられたという快感だけである。
私が去年の夏、旅先で仕事をしようとして、ノートブックを用いることにした原因の一つは、この幼い記憶、幼い快感が、私を誘う力となっていたことも事実である。