青門老圃独り一室の中に坐し、冥思遐捜す、両頬赤を発し火の如く、喉間咯々声あるに至る、稿を属し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣を牽き、床を遶りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は呻吟し、或は低唱す、忽ちにして大声放歌欷歔涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意か将た天意か
「デクインシー」曰く、世には人心の如何に善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、豈啻善悪のみならん、怯勇剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞梁上より墜ちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮なし、源氏征討の宣旨を蒙りて、遥々富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、啻に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、当人たる平家の侍共も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中を馳け廻り、翌くる二十四日の暁天に至りて寂として息みぬ、誰か此風の行衛を知る者ぞ
犬に吠え付かれて、果てな己は泥棒かしらん、と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者と勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、況や他人をや、二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学上の事、吾人の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん、若し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉