ちらほら人が立ちどまって見る、にやにや笑って行くものがある、向うの樫の木の下に乳母さんが小供をつれてロハ台に腰をかけてさっきからしきりに感服して見ている、何を感服しているのか分らない、おおかた流汗淋漓大童となって自転車と奮闘しつつある健気な様子に見とれているのだろう、天涯この好知己を得る以上は向脛の二三カ所を擦りむいたって惜しくはないという気になる、「もう一遍頼むよ、もっと強く押してくれたまえ、なにまた落ちる?
落ちたって僕の身体だよ」と降参人たる資格を忘れてしきりに汗気燄を吹いている、すると出し抜に後ろから Sir ! と呼んだものがある、はてな滅多な異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーッと立っている、こちらはこんな人に近づきではないが先方ではこのポット出のチンチクリンの田舎者に近づかざるべからざる理由があってまさに近づいたものと見える、その理由に曰くここは馬を乗る所で自転車に乗る所ではないから自転車を稽古するなら往来へ出てやらしゃい、オーライ謹んで命を領すと混淆式の答に博学の程度を見せてすぐさまこれを監督官に申出る、と監督官は降参人の今日の凹み加減充分とや思いけん、もう帰ろうじゃないかと云う、すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと婆さんの問に敗余の意気をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴って秋気来るヘン
忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたる余は徐ろに眼を放って遥かあなたの下を見廻す、監督官の相図を待って一気にこの坂を馳け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、路幅十間を超えて人通多からず、左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり、東洋の名士が自転車から落る稽古をすると聞いて英政府が特に土木局に命じてこの道路を作らしめたかどうだかその辺はいまだに判然しないが、とにかく自転車用道路として申分のない場所である、余が監督官は巡査の小言に胆を冷したものか乃至はまた余の車を前へ突き出す労力を省くためか、昨日から人と車を天然自然ところがすべく特にこの地を相し得て余を連れだしたのである、