人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる監督官はさあ今だ早く乗りたまえという、ただしこの乗るという字に註釈が入る、この字は吾ら両人の間にはいまだ普通の意味に用られていない、わがいわゆる乗るは彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、鞍に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり、ただ力学の原理に依頼して毫も人工を弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辞せず驀地に前進するの義なり、去るほどにその格好たるやあたかも疝気持が初出に梯子乗を演ずるがごとく、吾ながら乗るという字を濫用してはおらぬかと危ぶむくらいなものである、されども乗るはついに乗るなり、乗らざるにあらざるなり、ともかくも人間が自転車に附着している也、しかも一気呵成に附着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたる余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して吾が自転行を壮にしたいたずらものがある、妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、今度は大変な物に出逢った、女学生が五十人ばかり行列を整えて向からやってくる、こうなってはいくら女の手前だからと言って気取る訳にもどうする訳にも行かん、両手は塞っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴ている、下りようとしても車の方で聞かない、絶体絶命しようがないから自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。
ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり、けれども毫も留まる気色がない、しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳けて行く、気が気でない、今日も巡査に叱られる事かと思いながらもやはり曲乗の姿勢をくずす訳に行かない、自転車は我に無理情死を逼る勢でむやみに人道の方へ猛進する、とうとう車道から人道へ乗り上げそれでも止まらないで板塀へぶつかって逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまった。
大分御骨が折れましょうと笑ながら査公が申された故、答えて曰くイエス、