百万人の文学の性格を一言にいえば、読者が血肉をもってうけとるにこたえるだけの、作者の血肉がこもっていなければいけないということで、鬼の一念によって書かれていることが条件である。
明治以降、百万人の文学と認めてもよいと思われるものは、見た目にスケールが大きそうな漱石や潤一郎にしても、四畳半できくサワリ程度に小型で、人間と格闘したような大きな荒々しいものはない。
現代の作家では、弱々しいセン光の身もだえに似たものであるが太宰がアドルフと同じように百何年後に千万人の魂と結合する程度に愛読されるだろう。