明治、それから、大正、昭和という途方もなく飛躍的な時代を経過して、昔の型から一歩もでることができずに、大衆の中に生き残ろうなどとムリのムリで、粋とか通とかいわれることが、すでに大衆の中に生きていないことのハッキリした刻印なのだ。
大衆の中に生きている芸術は、常に時代的で、世俗的で、俗悪であり、粋や通という時代から取り残された半可通からはイヤがられる存在にきまったものだ。
落語というものが、昔のまま、庶民芸術の様相だけもちながら、全然庶民性や、時代性を失っているから、いつの時代にも、金語楼や歌笑に類するもの、つまり、時代感覚をとり入れようとする反逆児が、今後も常に生れてくるにきまっている。