いじめられ通しの農民には、上からの虐待に応ずるには法規の目をくぐるという狡猾の手しか対処の法がないので、自分が悪いことをしても、俺が悪いのではない、人が悪くさせるのだと言う。
何でも人のせいにして、自主的に考え、自分で責任をとるという考え方が欠けており、だまされた、とか、だまされるな、と云って、思考の中心が自我になく、その代り、いわば思考の中心点が自我の「損得」に存している。
自分の損得がだまされたり、だまされなかったり、得になるものは良く、損になるものは悪い。
いじめられ通しの農民には、上からの虐待に応ずるには法規の目をくぐるという狡猾の手しか対処の法がないので、自分が悪いことをしても、俺が悪いのではない、人が悪くさせるのだと言う。
何でも人のせいにして、自主的に考え、自分で責任をとるという考え方が欠けており、だまされた、とか、だまされるな、と云って、思考の中心が自我になく、その代り、いわば思考の中心点が自我の「損得」に存している。
自分の損得がだまされたり、だまされなかったり、得になるものは良く、損になるものは悪い。