女が来たので甥に案内させて町をみせたり、一応兄に紹介しておきたくなって兄を訪れたり、甥と散歩にでた女が赤い顔で帰ってきたので、酒を飲んできたのであろう、いいえ飲みませんと押問答したり、料理をくいに行ったり温泉へ行ったり、昔は美丈夫だった友達の写真をわざわざ取寄せて女に見せたり、その人がもう死んでいたり、要するに、そういう種々の事柄のまことに「枯淡なる」記録である。
この作品のどこに特別の人生的深さがあるものやら、あると云う人に、それではどこにその深さがあるというのか一々丁寧に教えて貰わないことには、全く私の腑に落ちないのだ。
まず人物にしてからが、どの一人として所謂南画の神品風に生動する活写はなく、娘のような女をつれて温泉なぞ歩いている老人の姿にも人生の深さによって人を打つ筆力は全くない。