鋭い影は一線に海を流れてすでに深い背の闇に溶け去つてゐるが、男はそのただ一つなる決意のみを心とする人の如く、ひたすらに帰らんとして疲れた足をいそがせてゐる、しばらくして、ものに怯えた人の如く、男はふと頸をめぐらして背の闇をぬすみみた、そして……うう、「如是我聞、如是我聞――」、算を乱して逃亡する自我の滅裂を感じながら、居ずまひを立て直した凡太は、勇気をかりおこして経文を呟きはぢめたのであつた。
それも亦束の間のこと、ぶつぶつ煮える呟きも次第に低く引き去れば、山上の金比羅大明神の前栽に鳴りひびく盆踊の樽太鼓のみ、静かに脊髄に泌みついてきた。
そのとき由良ももつくりと起きた、暫らく手を床について、重たげな頭をぢつと下に向けながら、様々な音響を耳にこまかく選りわけてゐるやうな形であつた。