此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。
彼はこの旅に出て以来といふもの、この夜ほど深い満足と共に杯を把りあげたことは無かつたので、盛んに饒舌を吐きちらしながら盃を重ねてゐたが、遂ひには軽快な泥酔状態に落ちて、老婆を相手に難解な術語などを弄しながら人生観を論じ初めたりしたが、老婆は至極愛想が好くて、「さうですぜの、ほんとうに、その通りですぜの」と相槌を打つてゐた。
やがて夜が一段と更けて、壁の中から何か古臭い沈黙が湧いて出るやうな気配を、幾度となく感じはぢめる時刻になつてゐた。