つまり彼等は――といつても、単に緋奈子や村の子供達に就てばかりではなく、いはば此の漁村全体の人と風景にわたつて――已にある種の密接な雰囲気がつくられてゐるのに、私だけ一人は其処にうらぶれたエトランヂェであるやうに考へられてならないからです。
たとへば私が、初めて彼等の集団へ顔を突き出した場合の気まづい雰囲気を考へたなら、私といふみぢめなエトランヂェが、なんと気の毒に消えさうでありますことか。
勿論、素朴な村人たちが、さうまであくどく私を白眼視するだらうとは思はれないことですが、私としてはそんな場合、常にかういふ気まづい雰囲気を自分一人で創作して、その当座それを押し切つても無理に親しもうとする勇気は持てないのです。