彼は多忙な事務家のやうに急ぎ足で其処を通り過して、何でもない路傍の日蔭や日向で長いことボンヤリ休息してゐたり、或る時は又人群から程離れた塀や電柱に凭れて、ただ何といふこともなく黒い塊りの動きを眺めてゐたり、軒並の門札毎に小頸をかしげて「乃木太郎氏」を探し乍ら歩いたりザッとそんな風に歩いてゐた。
多少とも彼の感慨を促す風景があるとすれば、それはあの小学校の授業時間である。
――夢見心地で街を漂うてゐる時に、ふとあの合唱の音なぞが幾つかの屋根幾つかの樹樹の向うから湧くが如くに流れて来ると、その時だけは其の方向へ彼の足取が自然に曲げられて了つてゐる。