(まづ前もつて白状することには、私は浅学で、此の一文を草するに当つても、何一つとして先人の手に成つた権威ある文献を渉猟してはゐないため、一般の定説や、将又ファルスの発生なぞといふことに就て一言半句の差出口を加へることさへ不可能であり、従而、最も誤魔化しの利く論法を用ひてやらうと心を砕いた次第であるが――この言草を、又、ファルス精神の然らしめる所であらうと善意に解釈下されば、拙者は感激のあまり動悸が止まつて卒倒するかも知れないのですが――)
扨て、それ故私は、この出鱈目な一文を草するに当つても、敢て世論を向ふに廻して、「ファルスといへども芸術である」なぞと肩を張ることを最も謙遜に差し控え、さればとて、「だから悲劇のみ芸術である」なぞと言はれるのも聊か心外であるために、先づ、何の躊躇らう所もなく此の厄介な「芸術」の二文字を語彙の中から抹殺して(アア、清々した!
、悲劇も喜劇も道化も、なべて一様に芝居と見做し、之を創る「精神」にのみ観点を置き、あわせて、之を享受せらるるところの、清浄にして白紙の如く、普く寛大な読者の「精神」にのみ呼びかけやうとするものである。