単なる写実といふものは、理論ではなしに、理窟抜きの不文律として、本来非芸術的なものと考へられ、誰からも採用されなかつたのである。
近世たまたま、芸術の分野にも理論が発達して理論から芸術を生み出さうとする傾向を生じ、新らしい何物かを探索して在来の芸術に新生面を附け加へやうと努力した結果、自然主義の時代から、遂に単なる写実といふものが、恰もそれが正当な芸術であるかのやうに横行しはぢめたのであつた。
この事は単に文学だけではなく、音楽に於ても、(私は音楽の知識は皆無に等しいものであるが、素人として一言することを許して頂ければ――)私は、近代の先達として、ドビュッシイの価値を決して低く見積りはしないが、しかも尚この偉大な先達が、恰かもそれが最も斬新な、正しい音楽であるかのやうに、全く反省するところなしに単なる描写音楽を、例へば「西風の見たところ」、「雨の庭」と言つた類ひの作品を、多く残してゐることに就て、時代の人を盲目とする蛮力に驚きを深くせざるを得ない。