いはゆる立派な、哲学的な根拠から割り出された洒落といふものは、人間の聯想作用であるとか、又、高度の頭の働きを利用し、つまりは、意味を利用して逆に無意味を強めるもので、近世風な滑稽文学(日本では「狂言」が――)が皆この傾向をとつてゐる。
ところが、江戸時代の滑稽文学や、西洋の古典は、之とは別な方向をとり、人間的であるために、その洒落が駄洒落に堕して目も当てられぬ愚劣な例が多いのである。
(「八笑人」を摸して「七偏人」といふ愚作が後世出たが、之なぞは駄洒落文学を知る上には最適の例でめらう。
いはゆる立派な、哲学的な根拠から割り出された洒落といふものは、人間の聯想作用であるとか、又、高度の頭の働きを利用し、つまりは、意味を利用して逆に無意味を強めるもので、近世風な滑稽文学(日本では「狂言」が――)が皆この傾向をとつてゐる。
ところが、江戸時代の滑稽文学や、西洋の古典は、之とは別な方向をとり、人間的であるために、その洒落が駄洒落に堕して目も当てられぬ愚劣な例が多いのである。
(「八笑人」を摸して「七偏人」といふ愚作が後世出たが、之なぞは駄洒落文学を知る上には最適の例でめらう。