へどもどいふ理窟なんかちつともチャームがないし、さうかといつて空想に土台を置いたセンチメンタルなどは僕の阿母さんにでも泪を流させればいいのだしといつて事実――現象とでも言ひませうか――は理知とか思想の力でもつて産み出されてゆくのだから、何かしつかりした思想を持つてゐなくては生々とした事実は掴めやしない。
小説が詩のやうに何々でありましたとか何々であつたとかリイムをあはせて行進するものでないとしたら事実は各々独特な外延を象どつて、どの描写も歩をそろへて思想の向きへ進行をつづけなくてはならないと考へてゐましたが、僕はファーブルの本を読んで行くうちに思想の光りにあへばこんなつまらない虫のことでも下へも置けぬほどの貴いものになることが解り、吾々の菊石面も面皰も地下に眠らせるほどみにくいものでないやうな気がしました。
僕はこれから安心して事実を書いていきませう。