蒲原氏は歩んど書斎に暮してゐた。
読書をしたり、かれこれ二十年このかたの書き物をつづけてゐるといふのであつたが、極めて貞淑な、一心同体の蒲原夫人でさへ書き物のことは全然黙殺しきつてゐて、その完成に期待をかける人物はまさしく地上に一人もなかつた。
朦朧と書斎にとぢこもつてゐるばかりで、文字一つ書いてゐるわけではないのだと人々は笑ひながらひどい噂をするぐらゐで、何を書いてゐるのやらその題目さへ殆んど人々は忘れてゐたが、きくところによれば「埋もれたる平凡な市井人の歴史」とかいふ題目の由で、これまでの歴史が主として非凡人の歴史であり非常事の歴史であることにあきたらず、青史の外に埋もれた平凡にして善良な市井人のために、そのささやかな、然し各々の精根を傾けた感情や善行の数々を彰顕して、一篇の真に泪ぐましい人間史を描きださうといふのであつたが、あひにく埋もれた市井人の生活を示してくれる文献が殆んどなかつた。