あるにはあつたが、あひにくのことに文献の殆んど全部が詩・劇・小説なぞといふ不倶戴天の仇敵で、自家一生の著作が厳密な科学的労作であつても、詩・劇・小説のたぐひのやうな生来浮浪性を帯びた作物である筈はないと固く心に信じてゐた蒲原氏にとつて、まさしく致命的な伏兵であつた。
然しながら事実に於て市井人のささやかに燃えさかり埋もれていつた感情を書き残したものは文学のほかになく、要するに埋もれた市民達の感情は、各々の時代に各々の詩人によつて生き生きと語り綴られてきたことを厭々ながら納得しなければならなかつたとき、「埋もれたる平凡な市井人の歴史」と題する死んだ記録を綴るよりも、血の通つた自叙伝を遺す方がよつぽど自然だと疑ぐりだしてしまつたところで、蒲原氏の大業は人々の想像通り遠く十数年以前からものの見事に停頓状態をつづけてゐた。
蒲原氏は毎日書斎に籠つてゐたが、ぼんやりと肱掛椅子に埋もれてゐるばかりで、睡眠と思索との丁度その中間にあたるところの嗜眠性瞑想状態に於て、然しながらなまなましい四十七歳の人生を蚕食してゐた。