そのくせ奈良朝の頃には京と奥州を結ぶ道筋に当つてゐたところで、大伴家持が住んだと伝へられる土地もあり、言葉や柔和な風習なぞにも多分に京の名残りがあつて、交通の不便な頃は却つて賑やかな温泉であつた。
山底にしては珍らしく数十軒の古めかしい素朴な家がたちならび、宿屋も十軒ぐらゐはあるのだが、全国に汽車が通じ交通の便がひらけるにつれ、名もない温泉が続々あらはれるにつれて、往昔殷賑をきはめたこの温泉は今はまつたく山のどん底に置き棄てられた感じとなり、そのうへ積雪の甚だ深いところであつてさういふ気候の侘びしさもあり、数十軒の家棟ともども淋れきつた悲しさは、普通山奥の温泉といふばかりでは感じられない若干の感傷が流れてゐるといふのであつた。
この話をきくと、ひそかに戸隠行きに思ひをめぐらしてゐたに相違ない蒲原氏もよほど心を惹かれたものとみえ、戸隠行きには全く固執することを忘れて、早速明朝そこへ行きたいものであると言ひだした。