同時に、第四人称の私が文法的な制約から必ず第四人称に限定されるに比べれば、この無形の説話者は第五人称にも第六人称にもなりえて、益々複雑多岐な働きをすることもできやうと思ふのである。
とまれ然ういふ文章の構成法を様々に研究してみたら、極めて軽妙に文章の真実らしさを調へることもでき、従而言はうとする内容を極めて暢達に述べとほすこともでき、色々とひつかかる左右の問題にも軽く踵をめぐらして応接することができはしないかと思ふのである。
別な見方からすれば、内容を萎縮せしめる形式が最もいけないのであつて、その逆の形式をもとめるべきであり、私自身はその形式の必要を痛感しつつもはや長く悩まされ通してゐるばかりである。