別な見方からすれば、内容を萎縮せしめる形式が最もいけないのであつて、その逆の形式をもとめるべきであり、私自身はその形式の必要を痛感しつつもはや長く悩まされ通してゐるばかりである。
第四人称の問題は別として、らしい、とか、何々のやうであつた、やうに見えた、といふ言ひ方は、却々面白い手段ではあるまいか。
とかく今日の神経は、断定的であつたり、あくまで組織的であらうとすると直ちに反撥を感じ易く、いはば今日の神経はそれ自らが解決のない無限の錯雑と共にあがきまはつてゐるやうなもので、むしろ曖昧な形に於て示された物に対しては能動的な感受力を起してきて、神経自らが作品の方を真実らしく受けとつてくる、さういふことも考へられると思ふのである。