過去に於ては作者も読者も陶酔的であつたらしいが、今日では作者は同時に自らの批評家であることが免れがたい状態で、さういふ作者は作品の制作に当つて、自分と同じ批評家としての読者しか予想できないものである。
つまりは今も昔も変りなく、自分の意に充つるやうにしか書けないわけのものであらうが、そこで私は自分の状態をのべると、あくまで断定的ならざる又組織的ならざる形態で示したものが、それ自体としては真実を掴んでゐないにせよ、真実を掴みそこねてはゐないので、真実らしく見えるのである。
且又斯様に分裂的な曖妹な言ひ方を曖昧なままディアレクティクマンに累積することによつて、ともかく複雑な襞をはらんだ何物かを言ひ得たやうに思はれる場合が多いやうにみられるのだ。