喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。
「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。
三千人の女子供がひそんでゐたといふ空濠は、今も尚、当時のまゝ残つてゐる。
喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。
「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。
三千人の女子供がひそんでゐたといふ空濠は、今も尚、当時のまゝ残つてゐる。