大村藩所蔵の「見聞集」によれば、家老大村彦右衛門を大将に、少数の城内留守番を残して、士分は言ふまでもなく、足軽から土民に至るまで、十五歳から六十歳に至る全人口をかり集めたのである。
そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り、一歩一人の列を守つて山狩りをはじめたのである。
山狩りの味方同志が同志討ちの危険があるので「佐嘉勢者腰に藁注連平戸勢者大小鞘に白紙三つ巻島原勢者左の袖に白紙大村勢は背三縫に隈取紙を付け各列を定め出歩之刻限を極め暮に及相図を以て押止り其所に居て篝を焼夜中交替して不寝番を勤往来を改禁す」三十五日かゝつて山の端から端に及び、浦上から海へつきぬけてしまつたけれども、次兵衛を捕へることができなかつた。