今日の太陽暦というものは明治政府が採用したもので、それ以前は太陰暦であるから、一ヶ月以上のヒラキがあるのが普通である。
私がこのことを肝に銘じたのは、私が島原の乱を書こうと思って文献を調べはじめた時からで、切支丹の文献は、資料が日本側と外国側と二種類あり、日本側の日付は太陰暦であるが、西洋側は太陽暦なのである。
したがって、事件の発端が十二月にかかっている天草の乱の如きは、太陽暦では翌年にかかっており、太陰暦の元旦に天草の切支丹組が油断していると思って総攻撃した時、切支丹側には何でもない平日で、ために日本側は総大将が戦死するほどの大損害をこうむった。